風立ちぬの背を

風立ちぬは、登場人物の心情を台詞でみだりに説明したりはしません。このことから、堀越二郎の人間性が演出に反映された寡黙な映画であると言えます。

こういった映画を観る際は、登場人物の声だけでなく作品の声も汲み取る必要があります。作品の声とは、作者の声のことです。
つまり、宮﨑駿監督の意図に思いを馳せるよう努めなければならないのです。さもなれば、そこに演出があるということにすら気が付くことが出来ません。

まだ、風立ちぬを一度もご覧になってない方は、鑑賞後に以下の文章を読んで頂けると幸いです。


歌が演出としての役割を果たすことは言うまでもないでしょう。それは風立ちぬも例外ではありません。
風立ちぬの歌と聞けば、ひこうき雲を思い浮かべるかと思います。確かに、あの主題歌はこの映画ために作られたと言えるほどに足並みが揃った素晴らしい歌です。
ただ、ここで言及したいのは Das Gibts Nur Einmal という劇中歌についてです。
二郎、菜穂子の父、カストルプの3人が軽井沢のホテルで、突然この歌を歌い始めたものですから、印象に残っている人も多いことでしょう。
元々は、会議は踊るという映画の劇中歌で、主人公の女性が歓びを表す場面で歌う曲です。
以下、和訳された歌詞を引用します。

 今日はお伽噺のようなことがつぎつぎに起きる。

 あまりにも素敵すぎて本当とは思えない
 まるで奇跡のように射してくる
 天上から金色の光が。

 ただ一度だけ
 もう二度と来ない
 ただの夢かもしれない。
 人生にただ一度
 明日にはもう消え去っているかも。
 人生にただ一度
 だって花の盛りはただ一度だけ。

http://flaneur.web.fc2.com/011.html

二郎は、「君に逢えるなんて素敵過ぎて、おとぎ話みたいだ。こんなこと人生で一度しかない奇跡だよ。まるで夢みたいだ」という風な台詞を口にすることはありません。
けれど、彼が、この歌を、あの場面で、高らかに歌う、という演出の意図を汲みさえすれば、自ずと彼の心の声が聞こえてくるはずです。


風立ちぬの演出を語る上で欠かせないのが、結核という病気です。
物語中盤、菜穂子はサナトリウムと呼ばれる結核患者用の療養所へ行きますが、当時は結核に対する有効な治療法が確立されていませんでした。
そのため、サナトリウムで受けられる治療といっても、新鮮な空気の元で栄養のあるご飯を食べて安静にする、というものに過ぎませんでした。
今日の結核は治る病気として認識されていますが、当時は不治の伝染病として恐れられていたのです。
なぜ、こうまで口を酸っぱくして結核について説明したかというと、結核が空気感染する死の病であるということを念頭に置いたまま作品を観て欲しいからです。
そうでなければ、サナトリウムを抜けだした菜穂子に「一緒に住もう」と声をかける二郎、二人の時間やキスといった全てが、より強い意味を孕んでいることに気が付けません。
要するに、結核という病気そのものが演出としての役割を果たしているため、それに関する情報が欠落していては困るのです。
どの場面も台詞が少なく淡白に描かれているように見えるかも知れません。しかし、実際には、台詞では語られない思いで満ち満ちています。


「風立ちぬは、登場人物の心情を台詞でみだりに説明したりはしません。このことから、堀越二郎の人間性が演出に反映された寡黙な映画であると言えます。」
最初の一行でも述べた通り、風立ちぬという映画は極めて寡黙な映画です。そして、その物語の主人公も同様に寡黙なのです。
妻の喀血を知り、涙を流しながら大急ぎで逢いに行く場面に余計な台詞は不必要です。彼の一挙手一投足に目を向けさえすれば、彼が妻にどれだけの愛情を抱いているのかが十二分に伝わるはずなのです。
彼がどういう人間であるかは、映画を観た人の受け取り方次第なのは言うまでもありません。
しかし、僕がどうしても言わずにはいられないことは、寡黙な人間の心中を察することと寡黙な映画を理解することは、どちらも容易ではないということです。
台詞ではなく、絵を通して語るのが風立ちぬの良さであり、難しさでもあります。
時には観客に予備知識を求めることもあるでしょうし、繰り返し観なければ分からないこともあるでしょう。
しかし、分からなくても、分からないものに出会うことが必要で、そのうちに分かるようになるのです。
このことは、大人にも子供にも等しく言えることだと思います。